無垢な時間に寄り添う、唯一無二の日本酒
農口尚彦研究所は、今までいくつかのコラボレーションに取り組んでまいりました。
私たちがさまざまなコラボレーションを行う理由。
それは、単に新鮮さを求めているからではありません。
杜氏・農口尚彦が積み重ねてきた技術や精神、そして酒造りに向き合う生き様。それらは、日本の酒文化の中で静かに受け継がれてきた、大切な財産です。
けれど、本当に守るべきものは、閉じた場所の中だけでは生き続けてはいけません。
誰かの手に渡り、誰かの時間の中で味わわれていくこと。
異なる価値観や文化と出会い、響き合っていくこと。
その広がりの中にこそ、次の世代へ受け継がれていく力が宿ると、私たちは考えています。
だからこそ農口尚彦研究所は、外の世界とつながり続けます。
そして、その“つながり”の先にあるのは、単なる取り組みではなく、同じ思想を持つ存在との出会いです。
互いに本質を大切にし、表層的な華やかさではなく、時間や体験そのものの価値に向き合っていること。
その姿勢に深く共鳴できる相手だからこそ、一つの日本酒としてかたちにする意味が生まれます。
今回はそんなコラボレーションの中でも、ひときわ印象深い、新しい出会いをご紹介いたします。

余白が満ちる宿のかたち
石川県・山代温泉にある1928年創業の老舗旅館。自然に抱かれるように佇む『べにや無何有』は、訪れる人に静かな問いを投げかけてくれる宿です。
自然のまま何の作為もないことを意味する古代中国の思想家・荘子の言葉「無何有」。
その言葉を“からっぽのなかの豊かさ”として捉え、宿の軸に据えた『べにや無何有』には、言葉通り過剰な装飾や演出はありません。あるのは、山庭から流れこんでくる木々の潤いと、風の音や光の移ろい、そして自分自身と向き合うための余白です。
同館は、厳格な審査をクリアしたホテル・レストランだけが加盟を認められる「ルレ・エ・シャトー」への参画、そしてミシュランキー獲得という評価を受けながらも、その本質は一貫しています。

女将・中道幸子さんはこう語ります。
「宿の中心は、赤松、山桜、楓、藪椿など、大きな樹木が自由に枝を伸ばす自然の山庭。そして訪れる人を癒す温泉もとても大切な要素です。
この場所も温泉も、全て自然からの祝福のようなもの。お客さまには、子どものように安心できる自分の居場所を、自然のなかに見つけていただきたいと思っています。そのために宿を整えるのが、私の仕事です。」
その言葉から見えてくるのは、何かを飾り立てることで成立する美しさではなく、本来そこにあるものが静かに立ち現れてくる、余白の中にこそ宿る美です。
自然や時間、そして人の内側にあるものが、無理なくほどけていくことで生まれる美しさが、この宿には息づいています。

料理と響き合うオリジナルの日本酒
その思想は、宿で振る舞う食の在り方にも及びました。
「自然からの贈り物で満ちる当館にとって、食はこの土地ならではの恵みを身体に取り込む時間です。見る、聞く、触れるといった形で自然の豊かさを感じ、そして自身に取り入れる。それはゲストにとって大きな価値のあることです」と中道さん。
もともと農口尚彦研究所とべにや無何有は、日本酒の提供などを通じて関係を築いていたため、その味わいや酒造りの姿勢についての認識を持っていただいていました。
そうした中にあったのが、女将の思いです。
「シグネチャー料理のひとつである合鴨つみれ鍋に、最適な日本酒があったら、という考えは以前からありました。
また、お客様がご滞在の記憶をそのまま持ち帰れるような一本を、館内のショップでもご紹介できたらとも思っていました。」
この思いをもとに、オリジナル日本酒をつくるという選択はごく自然に導かれていきました。
料理、空間、時間。そのすべてが静かに調和する中で、日本酒もまた全体の一部として存在する必要がある。既存の銘柄では実現しきれない、その繊細なバランスを形にするために、改めて農口尚彦研究所との取り組みが始まったのです。

ひとつの味を磨き上げる時間
今回の酒造りにおいて、核となったのがべにや無何有のシグネチャー料理のひとつ「合鴨つみれ鍋」です。
その出汁は繊細でありながら奥行きがあり、鴨の旨味がじんわりと広がっていく。その味わいに寄り添う日本酒をつくる——それが今回のテーマでした。
今回の開発の中心となった、べにや無何有のソムリエ・岡田雅代さん。
「開発は、イメージだけで進められたものではありません。実際に鍋の出汁をお渡ししたり、料理長に鴨鍋を用意してもらって、一緒に試食をしながら進めていきました」。
言葉だけでは伝わらないニュアンスを、実際の味を通して共有していく。何度も試作と検証を重ねながら、少しずつ理想の形に近づけていきました。
味わいの設計を担った岡田さんは、その過程をこう振り返ります。

「打ち合わせを重ねるたびに、農口尚彦研究所から届く日本酒が、予想をはるかに超えてブラッシュアップされていきました。本当に毎回驚かされました。こちらが言葉にしきれなかった部分まで汲み取っていただいて、それがきちんと形になって返ってくる。その精度の高さに、農口杜氏が酒造りの神様と称される所以を拝察いたしました。」
単なる要望への対応ではなく、一歩も二歩も踏み込んだ提案。その積み重ねによって新たな日本酒を完成させていきました。
「同じ食事でも、誰と食べるか、どこで食べるかなどシーンは様々です。上司と共にミーティングを兼ねておこなう食事会もあれば、友人と気軽なディナーもありますよね。そんな中でお酒の役割というのもたくさんありますが、私が一番だと思うのは、食事の場が心に残るような、会話が弾んで楽しくなるお酒が理想的だと思っています」。
岡田さんにとってお酒の理想形は、ゲストが楽しくなるシチュエーションにしてくれるということ。
これは、女将の中道さんや農口杜氏も同じ考えを口にしています。

「人間の“美味しい”は、育ってきた環境や文化にも左右されるので、人それぞれの嗜好の壁というのはソムリエにとって大きなものです。その中でも、食事やその時間に寄り添い、場を明るくするお酒をつくりたいという思いで、この開発をおこないました。私は飲み物を提供することを生業としていますが、旅から帰ったあとも、農口尚彦研究所のお酒をどこかで見たときや、お土産で持ち帰って飲むときに、このお酒を飲んだ楽しかった時間を思い出してくださったら、ソムリエとしてとても嬉しいなと思います」と岡田さん。
味わいの設計は、岡田さんの経験をもとにしています。以前は、お勧めしたお酒を飲んでもらいたいという気持ちが大きかったという岡田さん。しかし、予想以上に満腹になってしまうお客様を見て、考えを改めました。
「お料理は最後の一皿まで、お酒は最後の一滴まで美味しく、満足して終えていただけるように、お勧めしたいと思っています」

定義の枠をこえる味わい
この日本酒は、2020年収穫の石川県産有機栽培五百万石と、2021年収穫の兵庫県産・愛山を使用。
異なる酒米や酒造年度の個性をブレンドすることで、調和と奥行きのある味わいを実現しました。
強いアロマではなく、とても穏やかで膨らみのある香り。
口に含むと、米の存在を感じるふっくらとした味わいが広がり、なめらかな舌触りが感じられます。
そして、最後に印象に残るのは、圧倒的なキレの良さです。
合鴨つみれ鍋にある肉の油分や出汁の後味などをスッキリとさせてくれるキレは、農口尚彦研究所の日本酒らしい仕上がりとなっています。

完成した日本酒の味わいについて、岡田さんが印象的な言葉を残してくれました。
「日本酒のペアリングには、調和、対比させる、などといった基本の合わせ方が4つあると言われています。しかし、今回出来上がったこの日本酒は、なぜかどれにも当てはまらないのではないか、と私は思うんです。いわゆる“定義”みたいなものからは少し外れていて、でもちゃんと美味しく造られたお酒になっています。
実は、ペアリング相手(料理)によって立場を変化させるお酒なんです。お肉でしたら口の中をスッキリさせてくれますし、お魚には穏やかに寄り添ってくれる。お鍋の場合は、出汁の中にストンと入り込むような味わいです。鴨鍋の〆には雑炊をするのですが、米に合わせるとまた違う表情を見せてくれるんです。とても不思議な、おもしろい日本酒ですよ」

そんな『農口尚彦研究所×べにや無何有 吟醸酒 別誂』のエチケットには能登ヒバを薄くスライスした木製ラベルをあしらいました。べにや無何有のダイニングから続く広いテラスの床材も同じ能登ヒバが使われているといいます。
靴を脱ぎ、ダイニングを歩く感触はどこか心を落ち着かせてくれます。ここにあるのは、女将の語る「無垢な時間」。
それは決して特別な何かではなく、誰の中にもある感覚を静かに呼び起こすものです。
その時間に寄り添うために生まれた一杯の日本酒。
農口尚彦研究所とべにや無何有の思想が重なり合い、かたちとなったこの一本は、飲む人の記憶の中で、静かに生き続けていくのかもしれません。
※『農口尚彦研究所×べにや無何有 吟醸酒 別誂』は、べにや無何有のゲストと同館オンラインストア限定の商品です。
https://mukayu.ocnk.net/product/69

